資料NO. :  19
資料名  :  − 辺見 庸さんの講演会 −
     「私たちはどのような時代に生きているのか」
                戦争と平和と子どもたちの未来 
                               
                                木更津市生涯学習フェスティバル2002より
制作者(リポーター)  :  T.M.
制作日  :   2002/11/17

 11月17日(日)の木更津市生涯学習フェステバル2002という催しものの案内が新聞の折り込み情報誌に載っていて,そこで辺見庸さんの記念講演があるというので,行ってみました。

 講演は「私たちはどのような時代に生きているのか −戦争と平和と子供たちの未来−」と題して行われ,250人くらいが入れる中ホールにイスを後ろまで並べて満員の入りでした。正味1時間半の講演でしたが,まったく長く感じませんでした。

 講演中にクラスター爆弾のほんものの破片(下の写真参照)が会場に回され,一人ひとりが手に持って確かめることができました。
 辺見さんの講演をメモしたものを下に掲載します。
 
 当日,木更津駅を通ったとき,とんでもないところに遭遇しました。右翼が,駅頭の周辺を占拠して街宣を行っていたのです。右翼の車が13台くらいで20〜30人が戦闘服に身を包み,軍隊のように整列をし,宣伝を行っていました。
 何人かが交替でマイクを握り,その中には10代と思われる女性や青年たちがいました。らち問題を口実に北朝鮮叩きを叫び,また,「日教組撲滅」「共産主義撲滅」と叫んでいました。
 こんな状況を許してしまったら,戦争への道だと思います。彼らは,拉致被害者への共感を示すわけです。しかし,その結論は,北朝鮮への排外主義キャンペーンなのです。右翼に走った彼らも,本来は私たちの側に獲得すべき人たちだと思います。戦争反対する側の真価が問われていると思いました。 
右翼の反動的な街宣の様子はこちらをクリック

辺見庸さん講演(1)

辺見庸さん講演(2)

満員の講演会

クラスター爆弾の破片

辺見 庸さんの講演メモ

○「おもえ!」
 学校時代の恩師にT先生がいました。その先生が,教室での討論の時,「おもえ!」と一言いったことを忘れることができません。ことあるごとに思い出します。
 
T先生は,警察に追われていた外国人をかくまったことがあると言っていました。それは朝鮮の青年たちでした。T先生は,毅然として生きていたという印象があります。政治のことは一切言わないが,人間としてどう生きるのか,学びました。

○今,時代はうねっている
 今時代がうねっている,旋回し始めています。そのただ中にいると,曲がっていることに気がつかないものです。
 現代は非人間的にされている時代です。T先生のような人が,もっとも人間的に生きていると言えます。
 現代という時代を考えるとき,過去に遡及して考えることが必要です。今という時代は,過去の連綿とした歴史を引きずっているのですから。
 今,だれもがすっきりしない形で,わだかまりを持っているのではないでしょうか。
 その一つは,9月以来のらち問題です。北朝鮮の関与は申し開きのできない国家犯罪です。北朝鮮政府は,断罪されて致し方ない政権です。
 しかし,それですむのか!
今という時代は,連綿とした過去を引きずっているのです。過去に学ばないものは,過去の過ちを犯すことになります。
 憎むだけでは,誰かに利用されていることになりはしないか。相手の身になって考えてみることが大切なのではないでしょうか。
 日本は,朝鮮人を徴用した過去があります。100万人をくだらない,200万人という数字もあります。そこに思いを馳せることが必要です。
 教科書問題で,過去の事実を記載されないということがありますが,その動きが強まっていきます。広辞苑では,侵略の歴史を否定する傾向にあります。
 今,過去に学ぶことが必要です。
 国家対国家の関係じゃなく,人と人との関係の方が大事ではないかと思っています。
 今,朝鮮人学校が襲撃されているということが起こっています。在日朝鮮人の子供たちが,石をぶつけられる,チマチョゴリを破かれる,チマチョゴリを着ることが危険にさせられています。それは,和服を朝鮮で着られないことと同じではないのか,こういったことが起こっているのは,マスコミにも責任があります。
 在日朝鮮人が,北朝鮮の国家的犯罪のことで襲撃されなければならないのはおかしな事です。北朝鮮叩きが,国民的な盛り上がりになっているのは,危険なことだと思います。

 命令及び決定で殺された(戦争と紛争)人は,ブレジンスキーは20世紀に1億7千万人にのぼると述べています。
 長崎原爆資料館にはじめて行きました。原爆による朝鮮人の死者は1万人とも1万2千人ともいわれています。広島では,5万人とも7万人ともいわれています。朝鮮人は,生きていて差別され,死んでからも差別されました。
 日本人は,ネガテェブな歴史を忘れたがっているのではないかと感じます。過去を忘れることはない,共に生きるために知る必要があります。
 北朝鮮の政権は,許せません。しかし,政権と人々は別に考えなければいけないのではないでしょうか。

○イラク戦争の危機
 アメリカ・ブッシュ大統領は,イラク戦争に踏み切るのではないかと思います。共和党は中間選挙で勝利をしましたが驚いています。フセイン大統領は査察を受け入れましたが,ブッシュ大統領はフセイン政権の存在を認めないと思います。
 それと反対に,人々のレベルではベトナム反戦運動を超える運動が起こっています。
 
査察の過程で,戦争が始まる可能性があります。湾岸戦争(’91年)との違いは,イラクがクエートへ攻撃したといったことがあるわけではなく,中東諸国がイラク攻撃に反対していることです。イラクから中東全体,チェチェンに飛び火する危険もあります。
 アメリカでは,ブッシュを指示する人は右側でも少ないのです。当時,ヒトラーも始めは良い政権だと評価されたということがあります。ブッシュは,アフガン戦争の勝利で自信をつけました。しかし,カルザイ政権は,今やカブール周辺にしか支配地域を持っていません。不安定なのです。

○使われる兵器と非人間性について
 イラクへの攻撃が行われるとき,トマホークが使われます。一基1億7千500万円位するものです。アフガン戦争では,これが800基増産されました。2000万人の人口に対して,500万人が難民で,500万人が餓えています。
 今,このトマホークを作る金を飢餓の人々に援助すれば,どんなに助かるか,しかし,こういう考え方はしません。非人間的です。

 クラスター爆弾というものがあります。1個に200個の子爆弾が詰まっています。100メートルから200メートル四方を覆ってしまい逃げ場はありません。破片が体に刺さったら,引き出せない構造になっています。
(と,ここでクラスター爆弾の破片が,会場に回されました)
 
 ベトナム戦争の時には,裸で逃げる少女の写真が世界に伝わり,反戦運動が一気に爆発しました。アメリカのベトナム戦争は,マスコミに負けたとも言えます。しかし,湾岸戦争では,イラクの被害が伝わってきませんでした。この戦争で20万人が犠牲になり,その後の経済封鎖による餓死や劣化ウランによる被害があるが,伝わってきません。
 
 さらに,バンカー爆弾,ディージーカッターなどがあります。
 アメリカは,倉庫に寝ていた兵器を在庫一掃のようにアフガニスタンで使いました。

 ソマリアに行ったときは,200万人が死の寸前という状況でした。国連は助けるといいながら,何もしませんでした。その主力はアメリカです。
 戦争では,一週間で風景がすっかり変わってしまいます。

 アフガン戦争で,たくさんの人が精神に異常をきたしています。被害者へのアメリカの補償は,わずか千ドルです。これが命の値段なのです。戦争は,グロテスクで,非人間的で,悲惨なものです。
 ビンラディンを殺すために,今もアメリカは,アフガンの人々を殺しています。そのために,人間がミンチになるような攻撃をしているのです。そこで米軍は,死体から指を切り取り,ビンラデェンとその側近たちのものかDNA鑑定をしているのです。非人間性を示すものです。

 非人間性とは,人間だけど,非人間性を合わせ持ったものです。
 ものすごい非人間性とは,ブレジンスキーの言った,命令及び決定で1億7千万人を殺したということです。
 これの対極にあるのが,相手の目の高さで人の気持ちをわかろうとすることです。関心を持つことが必要です。無関心なことが,非人間性になることです。
 ほんとうに核査察を受けなければならないのは,アメリカの方だと思います。

○あきらめないこと
 勇気のある人は勇気のある表現を,勇気のない人はナメクジのような表現をしていくこと,あきらめないことが必要だと思います。
  『永遠の不服従のために』    (辺見庸 毎日新聞社発行 02年10月10日)

 「あとがき」
より

 世界とはなんだろう。歴史とはなんだろう。人間存在とはいかなるものか。国家とはそもそもなんなのか。人知とはなにか。日々生きるうえでこと改めて問わなくてもいいこうしたかぎりなく大きなテーマを、この一年と数カ月ほどつよく意識したことはなかった。いわずと知れた9・11テロのおかげである。9・11ほど苛烈で効果絶大な「試薬」はなかった。この劇物でもある試薬によって剥ぎとられた幻想のヴェールの下から、まったく予想外の貌が次々に露出してきている。眼前に次第に浮きでてきつつあるもの−それは、国家の途方もない暴力性であり、人間のかぎりない非人間性であり、歴史の不可測性であり、人知というものの存外な底の浅さではないだろうか。まさにわが眼をわが耳を疑うぱかりである。いまわれわれは、世界や歴史や人間存在や国家の動態をつなぐものが偉大な哲理や深遠な法則性などではまったくなく、ひょっとしたら、瞋恚(しんい:激しく怒る)や狂気や衝動にすぎないのではないか、もっぱらそれらに支配されているのではないかという、うち払おうとしても払いきれない懐疑のただなかにいる。意馬心猿(いばしんえん:煩悩のために心が狂い騒ぐこと)の景色はいったいどこまでつづくのだろう。人間は果たしてどこまで非人問的になれるのだろうか。答えはまだ見えていない。道標はつとに失われ、もはや信ずべき道案内もいない。さしあたりわかっているのは、世界や歴史や人間存在や国家や人知の哀しいまでの寄る辺なさである。そして、どこかでいままた新たな戦争が立ち上がりつつあるのだ。

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掲載:2002/12/02